アクティブ運用
23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し星条旗を掲揚した。午後12時15分に改めて5フィート×8フィートと先の旗の2倍となる星条旗を掲げることになり、AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールがその瞬間を捉えた写真とあわせ写真3枚を撮影した。この写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")。アメリカ海兵隊は創立以来常にその存在意義が問われ続けていたのだが、硫黄島の戦いは水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示したのだった。フォレスタル海軍長官は海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたスミス中将へ語った。「これで海兵隊も500年は安泰だな。」[7]
その後、日本軍が反撃し星条旗を引きずり下ろして日章旗を掲げたが、米軍が奪回して再び星条旗を掲げ直すという争奪戦が2度に渡って繰り広げられた。最後に翻った日章旗は血染めだったという。
フォレスタル海軍長官は本国へ戻っていったが、硫黄島の戦いはいよいよ激しさを増していった。24日、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊司令官の長男、アレクサンダー・ヴァンデグリフトJr.中佐も重傷を負う。24日から26日にかけ、海兵隊は馬乗り攻撃を繰り返しながら元山飛行場へ向けて少しずつ着実に前進した。前進速度は時速10メートル。市丸少将はアメリカ軍の戦術をこう報告している。「さながら害虫駆除のごとし。」[8]26日夕刻、元山飛行場は陥落した。この時点で日本軍の兵力は2分の1に減少、弾薬は3分の1に減少した。
2月26日にはFX
海軍建設大隊により、確保された部分で観測機の使用が可能となり、3月初めには飛行場の機能が殆ど完成した。そして3月4日、東京空襲で損傷したアメリカ軍のB-29爆撃機ダイナ・マイト号が、両軍砲火の中緊急着陸に成功し、補修と燃料の補給を受けた。これが、硫黄島に着陸した最初のB-29である。
元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していた。混成第2旅団はもともと練度の低い寄せ集め部隊であったのだが、歩兵戦闘の専門家である千田少将の訓練のもとで強兵に生まれ変わっていた。元山正面の守りは堅く、アメリカ軍は「ミート・グラインダー」(肉挽き器)と呼んで恐れた。だが混成第2旅団の戦闘力も限界に近づいていた。5日、栗林中将は戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移す。7日、第3海兵師団がアメリカ軍としては異例の払暁奇襲を断行、中央突破に成功し日本軍を島の北部と東部に分断した。
[編集] 組織的戦闘の終結
塹壕を制圧する火炎放射戦車M4A3 シャーマン水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、兵士は渇きに苦しんだ。暗夜に雨水を求めて沖縄旅行
を出た兵士の多くは戻ってこなかった。14日、栗林中将を支えてきた歩兵第145連隊長池田大佐が軍旗を奉焼する。16日、栗林中将は東京の大本営へ訣別電報を送った。「物量的優勢ヲモッテスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ、克ク健闘ヲ続ケタルハ小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ…然レドモ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼ニ堪エザル所ニシテ、幾重ニモオ詫ビ申シ上グ…。」
17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の外為
まで到達する。この日、同日付けで陸軍大将に昇進した栗林から、指揮下の各部隊へ最後の指令が送られた。「一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ。二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス。三…。四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ。」17日は出撃の機会を見つけられなかったため、約60メートル離れた来代工兵隊壕への転進が行われた。戦車隊を率いていた西中佐は火炎放射器によって負傷してもなお戦い続け、正確な最期は分かっていないが19日頃戦死したとされる。
26日、日本軍の最後の反攻が行われ、栗林大将、市丸少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。日本軍の最後の攻撃は所謂バンザイ突撃ではなく夜襲だったため、攻撃を受けたアメリカ陸軍航空隊の野営地には、脱毛
など戦闘の訓練を受けていない者が多く当地は混乱に陥った。アメリカ軍では53名が戦死、119名が重傷を負ったとされる。
市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して懐中に抱いて出撃した。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」[9]
一方、栗林大将の最期の模様は携帯 アフィリエイト
には分かっていない。突撃中に重傷を負い拳銃で自決したか、出血多量で死んだといわれている。海兵隊は栗林大将に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、階級章等を外していたため見つけることはできなかった。
これをもって、日本軍の組織的戦闘は終結した。
その後も生き残った日本兵が地下陣地に潜伏し、アメリカ軍は大規模な投降を促す作戦を決行し、生き残った日本兵の転職
はこれに応じて投降した。だが、投降を拒否する日本兵が大多数であったため、しびれを切らしたアメリカ軍は掃討作戦を決行し投降しなかった日本兵が生息していると思われる壕の入り口を埋め、潰していった。この際、わずかに見つかった生き残りの日本兵が捕らえられ、日本に生還を果たしている。
日本軍同士の殺し合い 組織的な戦闘が終わり島の西半分以上がアメリカ軍に制圧された後、わずかな水源や食糧を求めて生き残った負傷した日本兵が島の海軍航空隊の壕などに集結した。 が、あるものは先に占拠していた日本兵に追い出されて行き場を失い、そのままアメリカ軍に殺傷される、もしくはわずかな食糧を持っていたものは味方の日本軍に殺されたり、飲料水を巡って殺し合いが起った。 またアメリカ軍に投降しようとした日本兵が上官に家庭教師
から射殺されるケースも見受けられた。 これら友軍同士の間で起こった悲惨な出来事は、NHKのテレビ番組「硫黄島玉砕戦〜生還者61年目の証言〜」において生還者たちから異口同音に語られている事実である。
3月6日、機能を回復した硫黄島の飛行場に最初のP-51戦闘機部隊が進出した。3月15日(日本時間)、アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表した。
3月21日、大本営は硫黄島玉砕を発表した。「戦局ツヒニ最後ノ関頭ニ直面シ、17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」
終戦から4年後の1949年1月2日、潜伏していた最後の日本兵2名がアメリカ軍に投降した。
アメリカ海兵隊戦争記念碑「硫黄島上で戦った人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。」 - チェスター・W・ニミッツ海軍大将
硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までにあわせて1,023名であった。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であり、また、上陸後わずか3日間にて当時のD-デイを含むアメリカ軍の各戦場での戦死傷者数を上回った。2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことが出来たのは3名のみであった。第3、第4、第5海兵師団は硫黄島の戦いで受けた痛手のために沖縄戦には参加できなかった。第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の4分の1以上が硫黄島侵攻部隊のために与えられた。アメリカ海軍はいくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名[10]している。また、第二次世界大戦後に創設されたアメリカ海兵隊記念日は擂鉢山に星条旗を立てた日であった。(今現在ではアメリカ軍の記念日に統一されており、各軍の個別記念日は無い。) アーリントン国立墓地の近くに位置するアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものである。
硫黄島の奪取によってアメリカ軍は日本本土空襲の為の理想的な中間基地を手に入れた。これにより活動を活発化させたアメリカ軍爆撃兵団は、東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施した。東京空襲の後の横浜空襲の時からは、ついに硫黄島に建設した航空基地より長距離戦闘機P-51の護衛がつくようになり、日本軍航空部隊は勝ち目の殆ど無い絶望的な本土防空戦を戦わなくてはならなくなった。アメリカ陸軍戦略航空軍の中で実際に爆撃機を運用していた各爆撃兵団の司令官達は、単発戦闘機の長距離護衛を面倒なお荷物としてかなり低く評価していたが、現実的には双発の邀撃機の活動を昼間は不可能にしたばかりか、日本軍戦闘機の邀撃を困難にした。さらに、終戦までの間に延べ2,251機のB-29が硫黄島に不時着し、延べ2万名以上の乗員の生命が救われたとされている。
1985年2月19日、硫黄島において、日本とアメリカ双方の退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したという。この日建立された慰霊碑には日本語と英語で次の文章が綴られている。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」[11]
1945年1月まで海軍の硫黄島警備隊司令の任にあった和智恒蔵海軍大佐は、防御戦術に関して栗林中将と対立し、アメリカ軍の上陸の前に本土へ送り返されていた。戦後、和智は天台宗の僧となり、硫黄島協会を設立して、硫黄島の戦いにおける戦没者の供養と遺骨収集とに取り組んだ。